その日。スーパーでの買い物を終えて団地に帰ってきた怜子(40)は、集合ポストの303 号室『久野』と表札のついたポストに手を突っ込んだ。古いポストで鍵が壊れて開かないのだが、女の手なら隙間から中の物を取り出せた。郵便物は『久野浩一』宛のダイレクトメールが数通入っているだけだった。中には自宅玄関のスペアキーも入っており、それを取ると怜子は自宅のある3階へ向かった。
鍵を開けて自宅へ入ると、夫婦の寝室で浩一が中年の女(44)と裸で抱き合っていた。驚いた浩一が何か言おうと口を開き掛けた時、カッとなった怜子は買い物袋に入っていた大根を浩一の頭に叩き付けた。大根は見事に真っ二つになり、浩一は脳しんとうを起こして気絶した。「アンタ、誰なの!?」恐怖に震えた中年女が怜子に言った。「それはこっちのセリフよっ!」怜子は叫んだ。「今までは目を瞑って来たけど、自宅にまで連れ込むなんて!」これまでも怜子は度重なる浩一の浮気に悩んでいた。それで思わずあんな事をしてしまったのだ。あとで怜子は深く反省した。浩一は打ち処が悪かったのか、あの日以来車椅子生活になり、言葉もロクに話せなくなってしまった。それでも怜子は幸せだった。愛する浩一と一日中一緒に居られるからだ。怜子はかいがいしく浩一の介護をした。浩一が隠し持っていた2台目の携帯電話には、浮気相手と思われる相手からの着信やメールが残っていた。怜子は『今は長期の海外出張中でしばらく日本には帰らない。これを機に別れよう』と返信を打った。すると今度は、自宅に何度も無言電話が掛かって来るようになった。おそらく浩一の浮気相手達だろう。浩一からの一方的な決別メールに苛立ち、自宅にまで電話を掛けて来るのだ。怜子は内心、ざまあみろと思った。そしてやっと浩一を独り占め出来た喜びを噛み締めていた。下半身不随になった浩一にペニスバンドを装着させて、怜子は毎晩のようにセックスに及んだ。
ある日。しばらく入居者のいなかった隣室の302号室に中年の女が入居して来た。「今度隣に越してきました、長谷川と申します ……」引っ越しの挨拶にやってきたその女は、年の頃は四十代前半の髪の長い女だった。色白の美人だがその白さには生気がなく、雰囲気にもどこか陰を感じさせるものがあった。
その夜、いつものように浩一とペニスバンドでのセックスをしていると、壁を通して不気味な呻き声のようなものが聞こえた。怜子はビクリと身を強ばらせてじっと耳をすました。だがそれきり、何も聞こえては来なかった。
その翌日。怜子の部屋に若いセールスレディがやってきた。女の差し出した名刺には『ビューティコンサルタント・向井柚月』と刷られている。最近流行のコラーゲンやコエンザイムQ10などを配合した、高級化粧品の訪問販売員だった。柚月(21)は無料のサービスキャンペーンを実施中なので試してみないか、と怜子に言った。「さっきまでお隣の長谷川さんも体験されて、その効果に驚かれてましたよ」。その言葉に刺激され、怜子は柚月を部屋に上げた。車椅子の浩一は隣の部屋に隠した。柚月はテーブルに化粧品をずらりと並べると、慣れた手つきで怜子にメイクを施した。「市販の物に比べたら確かにお高いですけど、ほら、全然うるおいが違うでしょう?」柚月は手を動かしながら、喋りのほうも淀みなかった。巧みな話術で15 万円もの『基本セット』の購入を迫ってくる。「でも、主人に相談してみないと……」。怜子は夫が海外出張中でしばらく家に戻らないと嘘をつき、しつこい勧誘を躱そうとした。「それじゃあ尚更お使いにならないと」柚月は一歩も引かなかった。「奥様、まだお若いんだから。ご主人がお留守の時くらい、その若さと美しさをたっぷり利用して楽しまないと」柚月は年に似合わぬ淫靡な笑みを浮かべた。すると電話が鳴った。怜子は柚月から逃れるように受話器を取った。また無言電話だ。怜子は咄嗟に電話相手に芝居を打った。「あら、あなた。うん。こっちは何も変わりないわ。あなたの方は?」無言電話の相手はすぐに電話を切った。しかし怜子はしゃべり続けた。「そういえば、お隣に新しい方が引っ越してきたけど。……ううん。わからない。挨拶に見えたのは女の人だったけど……」とりとめの無い会話をするフリをして、電話が長引きそうな事を柚月にアピールした。「ゆっくりご主人におねだりしてみてください。明日また伺います」柚月は電話している怜子に一方的に言うと、テーブルに化粧品を残したまま帰ってしまった。柚月
を上手く追い払えた事に怜子はホッとした。この時ばかりは、タイミングよく掛かって来たイタズラ電話に感謝したのだが……。